
“旅はENCOUNTERS—東海道53次篇”
第7の宿、平塚宿エリア
(2025 07-2026 05に全53宿場訪問/戸塚エリアは2025 0926)
9月末に平塚を訪れた。JR平塚駅ホームでは 「たなばたさま」(ささの葉さーらさら のきば(軒端)にゆれて・・)のメロディが迎えてくれる。平塚の有名な七夕は過ぎちゃったけど、秋のお彼岸のこの時期、何に遭遇できるかちょっとドキドキしているのだ。

線路の上の渡り廊下のある駅舎は遠くを見張らせるし、雰囲気がちょっとあって好きなのだ。ほら、シルエットも素敵でしょ?

駅からどう歩いて行くか、迷いながら、駅の北を左右に走る旧東海道方面に向かって歩き出した。
駅近の繁華街ブロック。いろんな人たちが元気よく往来。ママも自転車で子供を預けて駅に向かって急ぐ。
その一帯を過ぎて旧街道の近くにふと目にとまった小さい公園。
そこにある碑を見て、最初、意味がわからなかった。
「お菊塚」と彫ってある。

そのお菊とはあの有名な「番町皿屋敷」のお菊のこと。言い伝えによると、平塚宿役人 真壁源右衛門の娘。江戸の旗本に奉公にゆく。ある時、お菊が恨まれる事件が起こり、彼女は斬り殺されてしまった。お菊が誤って家宝の十枚組の南京皿の一枚を誤って割ってしまい怒りに触れた説や、家来がお菊に恋をしたが応じられず逆恨みで皿を隠しお菊に罪を着せた説など・・ お菊は犯罪人扱いとなり長持に入れられて江戸から平塚の相模川河口付近に送り返されてきた。
父は悲しみの中で句を詠んだとされる・・・
「あるほどの花投げ入れよ菫草」(スミレソウ)
周りに咲くスミレの花をできるだけ入れてやってくれ・・・
「もの言わぬ 晴れ着姿や菫草」(スミレソウ)
可憐なスミレのような姿・・嫁入りや祝いの日に着る晴れ着が死に装束になってしまった・・
墓を建ててやりたい、盛大に弔ってやりたいという親心がありながら、罪人扱いされた娘には正式な葬儀が許されなかったのだ。
「菊」は華やかな花なのに、地面に踏まれることもある、でも、愛らしいスミレであるところに深い無念がにじみ出ている・・
まさか、平塚でいきなり有名な怪談の悲話に遭遇するとは思っていなかった。

旧街道から奥の真正面にはこんもり森が広がっている。
国道1号線の陸橋を渡ると平塚八幡宮ね。

大きな鳥居が迎えてくれる。
※とても古い神社で、社伝によると、1600年以上前の仁徳天皇のときに大地震が起こり、人々が苦しんでいたときに国家安泰・民の安寧を願い応神天皇を祀ったのが始まりとされている。 応神(おうじん)天皇は15代天皇(270~310) 東大寺大仏建立を助ける八幡大神の御霊とされた。源氏は特に八幡神を氏神として崇拝したとのこと。

そうだ、あと一か月もすると、七五三ね。

欄干の下には・・・

湧き水がひたひたと・・・

お水たっぷり。気持ちよく亀ちゃんが泳いでいる。

鯉の泳ぎもゆったりな感じ。

境内に入ると神社に奉納されているお馬さんと遭遇。
平塚八幡宮には源頼朝が北条政子の安産祈願のために神馬(しんめ)を奉納したとのいわれがある。
この子は雌の「皐月」ちゃん。令和元年5/26 岐阜県高山市生まれの白い雌のポニー。天皇陛下ご即位の年の五月に名づけられたとのこと。彼女をモチーフにしたかわいい置物の中に「皐月みくじ」が入っている。う・ま・く いくわ!!


皐月ちゃん、人懐っこいでしょ?

この子は令和4年4/16 高山市生まれ、雄のポニー「東風」(こち)ちゃん。
黒と白のツートン。

結構力は強いけど優しくマイペースっぽくてかわいい。

今の世の中、神社で生きたお馬さんに出会えることは少ない。
時代の中で「絵馬」がそれに代わっていった・・・
ツートンの東風くんとお社。とってもいい景色。

皐月ちゃんと東風ちゃんの風鈴の鳴る中、進んで行く。

子供たちが描いた元気いっぱいの二頭のお馬さんの絵の横で人々はお詣り・・
ありがとー。いっぱいエネルギーいただけます。


僕もお詣りしていくよー

気持ちいい森。


あ、鳥の図柄が入っているね・・・
平塚八幡宮は大鷲(おおとり)神社とも呼ばれている。
天空を自在に飛び獲物をつかむ強い鷲は神の使いとも言われてきた。(改行)


まぶしいお日様が傾いてきた。その影を横切って鷲が飛んでゆく・・・
大空ともつながってすっきりした気持ちになった。
さ、次に向かおう・・・
と神社を出たところでちょっと迷ってしまったのだ。宿場エリアに近いんだけど、どっち方向のどこに行く? 困ったときにはスマホの地図を指で拡大してどこかこれ!とひっかかるものがないか探すことにしている。
すると、現在地すぐ近くに「八幡山公園」,「八幡山の洋館」が現れたのだ。えっ・・洋館? 気が付いたら歩き出していた。神社とは地続きのところ。ほんの数分。見えた。あれだ!

ピンク色の古い洋館。いつ建てられたの? どうして神社の近くにあるの? 入口にきたら、旧横浜ゴム平塚製造所記念館、平成21年4月に国の登録有形文化財となったと記載されている。 中に入れるのでお邪魔してみる。


明るい緑のガーデンを望むポーチ、気持ちよさそう。


アーチと内側の放射状の窓上部。上げ下げ式の窓。
修復されて保存されている。

上げ下げ窓は 欧米の組石造り窓用。湿気ある日本の木製窓では膨張して開閉が難しくなるそうで、工夫してあるそう。また、上げ下げのどの位置でも窓が止まるように、中にはロープと滑車と鉄パイプが組み込まれているとのこと。


パーティルーム。光がうまく入り込み落ち着いた雰囲気。
明治期の貴重な登録有形文化財は、今は会議室やレンタルスペースとして活用されている。
さて、この洋館、外国人の邸宅みたいだけど、この由来は? と調べてみたら、とんでもない背景があったのだ。
No.3 神奈川宿のところで生麦事件(1862)で英国人たちが薩摩藩士に切りつけられ米国領事館だったお寺に逃げ込んだ話に触れました。その流れで鹿児島で英国と薩摩藩の薩英戦争(1863)が起こります。短期に終結するのだけど、このときイギリス軍はノーベル発明のダイナマイトを使う艦砲射撃。火薬を詰めた砲弾は当たった先で爆発する近代的な攻撃。一方、薩摩藩は手元で火薬を爆破させ鉄玉を飛ばして相手にぶつける「旧式」攻撃。和解後、一転して親英方針がとられ、明治維新での「近代技術」導入必要性提唱につながる。明治38年(1905)の日露戦争では日本はダイナマイトを輸入して使用したのだが、いよいよ国内で製造せねばということになる。 そして、平塚には広大な土地があり、東海道線開通後で輸送が便利、軍都の横須賀に近く、製造に必要な地下水が豊富にあったことなどから、この平塚八幡宮につながる広大なエリアに「日本火薬製造株式会社」が作られたのだ。生麦事件から40年程経過。
そして英国人技術者が招聘された。その執務室・住宅として建てられたのがこの洋館! 英国ノーベル社の技術が関わり工場が建設された。その後の関東大震災(1923)にも、また、平塚大空襲(1945)にもこの建物は生き延びている。「日本火薬」は大正8年(1919)に日本海軍が買収し「海軍火薬廠」になる。洋館は海軍士官たちの交流施設「横須賀水平社平塚集会所」として使われた。
最盛期の敷地は東京ドーム約30個以上(44万坪/140万㎡)。平塚は塀で囲まれた巨大な軍需エリアを持つ都市になっていた。
戦艦大和の46cm砲弾を含む大型砲弾用弾薬や魚雷や特殊兵器用を含む弾薬など製造・・ 火薬は少しの火花でも危険なので建物は低く分散配置され、周囲には土塁や防爆構造となっていたよう。
そして、戦後、敷地の一部がタイヤ製造の「横浜ゴム」に払い下げられ、この洋館は応接室/会議室として使われた。平成16年(2004)に平塚市に贈られ、この公園の場所に移設・保存されたのだ!
ピンク色のかわいい洋館で今はコンサートも開かれたり、庭園散策も気持ちいいところなのだけど、日本の近代史、その中の兵器生産施設の一部だった時期があったのだ。
はるか昔からあった隣の八幡神社が弾薬製造のために消失しなかったのはよかったけれど、軍関係の参拝や出征兵士たちの祈願や戦勝祈願など大変な影響を受けていたんだ。形あるこの建物を残していくことは大変。でも、時代を振り返ることができ、かつ、より庶民の幸せのための活動に使われていくことは素晴らしいものね。
近代史のタイムマシンにいきなり乗ったような気分。呆然としながら庭園で深呼吸して外にでた。

まぶしい日の光。
自転車のシルエットがスイスイ気持ちよくゆく・・・
平らな地面、まっすぐの道路。
あ、地名は「平塚」だった。
今日もまた、時空間を超えた遭遇の嵐・・
ありがとー。平塚。
そうだった。「皐月」ちゃんおみくじ、戻って引いて帰ろうっと。

平塚 東海道五拾三次之内 平塚 繩手道(なわてみち)
平塚の平らなエリアの繩手道(あぜみちのこと)が「く」の字に進む。西に見えるこんもりした高麗山。奥に富士山。疾走する飛脚とゆっくり帰路をゆく駕籠かき。平塚宿の西の端あたりね。花水川を渡る橋が小さく描かれています。それを越すと次の宿場、大磯になります。

