
“旅はENCOUNTERS—東海道53次篇”
第8の宿、大磯宿エリア
(2025 07-2026 05に全53宿場訪問/大磯エリアは2025 0924)
まあるい小石の砂浜が一面に広がる。
先にはどーんと湘南の海。さわやかな風が頬にあたって最高に気持ちいい。

正面左奥には伊豆半島。右奥には箱根。
そして、富士山の頭も見えている・・・

ここは照ヶ崎海岸。初めて訪れた。ちょうど大磯駅(JR)からまっすぐ歩いて下りてくると10分。日本の海水浴元祖の地とも言われている。
車のアクセスがよい有名な大磯ロングビーチ※からは3kmほど東に離れている。
※大磯ロングビーチ; 隣接する大磯プリンスホテルは最初の東京オリンピックの年(1964)に開業している。

押し寄せる波がビーチのまあるい石たちにぶつかってくだける。
平たくひろーく全面が白く光って消えてゆく。
思いっきり聴きたくなるいい音。


ここの水際の波は見ていて飽きない。いろんな形が一瞬ジュワーっと盛り上がっては消える。

この辺りの平らなビーチに岩礁があるのが不思議。1000万年以上前の海底でできた堆積岩(凝灰質砂岩など)が波に削られて岩礁になっているそう。砂浜は広く遠浅。昔は地曳き網漁もあったのだ。
ちなみに、照ヶ崎の由来は日当たりのよい岬の意味ではない。伝説によると漁師が蛸(タコ)を引き上げた。それがただの蛸ではなく、光輝く千手観音像だった。観音様が海上で照り輝いたことから・・・



あれっ? 一斉に岩礁から飛び立った鳥たち。
鳩のようなんだけど何だろう・・・?
岩礁に戻ってきた子もいたのでよく見てみると・・・

黄緑というか、ウグイスみたいな色。胸のあたりがちょっと赤く南国風・・ ここに来るまで全く知らなかった。この子たちは「アオバト」。普段は森林に暮らしているんだけど、春から秋の間だけ、「海水」や「鉱泉」に飛来して飲むらしい。日本国内では数か所。太平洋側ではこの大磯の照ヶ崎海岸ぐらいなんだそう・・・!
彼らの多くはこの北側にある丹沢山地から飛来し、最も多い日には延べ2000羽!以上観察されている。この岩礁があることで満潮の時にも飲め、すぐ背後に深い森の大磯丘陵があるなど好条件が揃っているとのこと。
(照ヶ崎海岸は1996年に神奈川県の天然記念物指定に)

おっ バッシャーンと砕けた波。
さすがにこれは飲めません。
必死で羽ばたいてよけるアオバト。
なんか、楽しそうなんだけど・・

波の音が小さくなったら、子供の声。
「おばあちゃん、ほらー まるいよー」

っと、急に立ち上がったら今度は水際まで走って行きお日様に向かって
「わーい!」
付き添いのおばあちゃん、大変。
波際を寄り添い走りして、でも邪魔しないように、ちゃんとウォッチ。
きっと坊やの貴重な思い出引き出しに入りますよー
海岸の入口に幾つか碑が立っていたけど知らないことばかり・・
ここは日本の初期の海水浴場の一つ(1885年)。幕末から明治に活躍された日本近代医学の父と言われた松本順が開設。「泳ぐ」,「海の家などで遊ぶ」,「日焼けする」という発想じゃなく、海に入ることで「冷たい海水の皮膚への刺激」、「潮風を吸う」、「海辺環境での静養」を目的とした海水浴療法で、海に入るときもあまり泳がず岩場の鉄棒につかまり潮につかる感じだったとのこと。
江戸時代、大磯は東海道の宿場町だったのが、明治に入り宿場がなくなると経済的に苦しくなっていた。が、海水浴で発展の道が一つ開けたのだ。
当時は 海に病人を入れて何になる?とか、裸で風紀が乱れるなどの戸惑いの声もあったんだそう。それが、明治20年(1887)に東海道線の大磯駅が開業すると東京方面から訪れる人たちが増えてゆく・・・
大磯海水浴場の成功で逗子、鎌倉、江の島などにも海水浴文化が広がっていった。現在の湘南イメージが形成されていったんだね。
アオバトだけでなく、人も海水を求めて訪れるようになったのだ。
アオバトが帰っていく方向を見てみると、旧街道、宿場の後ろに迫っている屏風のような山、高麗山(こまやま)が気になった。
そうそう、この山はこの連載の一つ前、第七の宿場平塚から眺めると広重が描いた(前回の最後の方に広重の絵 掲載)お椀を伏せたように見えるのだ。 スマホ地図でその山斜面あたりを拡大してみると古い神社もあるようだし、あっ、一ヶ所、何?というところを見つけてしまった。
海岸から上がって北東方向、行ってみよう。 ちょっと歩くけどね。

海近くの古いお家の石垣の横を歩いてゆく・・

見上げるとお庭に茂る木が大きい・・
東西に走る街道をつっきって山のふもとまで行ってしまおう。途中、気になるものがいくつか目に入るんだけど、戻ってくるときに味わうことにしてとにかく、ぐんぐん歩く。

おっ 白いヒガンバナ・・!
横に飛来してきたものが・・・


秋の花、シオン(紫苑)に着地するアゲハ蝶。
この花、源氏物語や今昔物語にも登場するんだった・・。
わき目ふりふり、気になるところが沢山あるけど、まっしぐらに高麗山の麓までやってきた。

見たかったのはこの木、ホルトノキ。
樹高23m, 胸高周囲4.5m, 枝の広がりは直径20m以上。樹齢300年超。大磯町指定史跡名勝天然物。なんと日本画家、堀文子※さん(1918-2019)が私財を投じ開発危機から守って大切に見守られてきた樹木だった。ホルトノキは千葉県以西の暖地に生息する常緑樹。神奈川県では希少な木で、かつては横須賀市、小田原市などでも育っていたが今はもうないとのこと。
※堀文子さんの晩年の絵は描き下ろしで雑誌「サライ」に連載された。


望遠レンズで覗いてみると、あら、葉っぱの下に実がぶら下がっているね。

オリーブの実に似ているけど・・・ オリーブではないんだ。
実は江戸時代、平賀源内が「ポルトガルの木(オリーブ)」として紹介。木の名前はポルトガルからホルトに・・・ これ、名前の取り違え(笑)
潮風に強く、ゆっくり育ち、夏に白い小花が華やかに咲くとのこと。
これは来夏に見に来なければ・・
そしてこの高麗山麓沿いに7分ほど歩くと「高来(たかく)神社」。

高麗山は昔から「神の山」とされていた。古代7世紀後半に朝鮮半島の高句麗が唐の新羅(しらぎ)に滅ぼされた後、高句麗の王族系渡来人、若光(じゃっこう)が大磯に渡って住み着いたと伝えられている。
奈良時代には僧の行基が訪れたとの伝承。
そして、先ほどの照ヶ崎の海で漁師が引きあげた千手観音が祀られて高麗寺が建立されたと言われている。
鎌倉時代には幕府から厚い信仰を受け、武士たちが立ち寄る重要な信仰拠点となった。江戸時代には更に幕府から朱印地(寺領)を与えられ格式ある場所に。 しかし、明治の神仏分離令で、高麗寺は廃寺。後、明治30年に高来(たかく)神社に・・




神社のお祭りは盛大。かつては神輿が海上を渡っていたものが、今は陸上を船型の山車(まつりぶね)を曳く夏の「御船祭」(みふねまつり)と、春の高麗の「山神輿」(やまみこし)に。
海と山と。

古い森の中のこの境内ですっと立ち止まってみると、長ーく深呼吸したくなる何とも言えない空気が流れている。
さ、ゆっくり街道に戻って歩いて行こう・・・
国道1号線を大磯駅まで西に向かい戻ってゆく。
国道に平行して、途中から駅付近まで、松並木の旧道が1kmほど残っている。


住宅などと共に、美しく大きく残っている松たち。
会うことができて結構うれしい。

そしてこの旧街道は広重も描いているのだけど化粧坂(けわいざか)といわれ、化粧井井戸(けわいいど)などの碑が立っている。
なんと、鎌倉時代の悲恋物語「曽我物語」のヒロイン、「虎御前」(とらごぜん)の伝説と結びついているのだ。幼い頃、殺された父の仇討ちを目指す曽我十郎祐成(じゅうろうすけなり)の恋人が虎御前。曽我兄弟は富士の裾野で父の仇討ちとして、工藤祐経を討つ(1193)。その後すぐ、二人とも命を失ってしまう。虎御前は19才で尼となりこの地に庵を結び兄弟の供養を続けた。この仇討ちは日本三大仇討ちの一つ。(知らなかった!)
虎御前は和歌を詠み、舞うことのできる大磯の女性で朝夕、ここの井戸の水を汲み、髪を整え、顔を洗い、化粧をして身なりを美しく装っておられたとのこと。
そして「虎が雨」という言葉が有名だったのだ。曽我十郎が亡くなった日(旧暦5/28)に降る雨のことをいい、恋人の虎御前が流した涙が雨になったと・・・
そりゃあ、江戸時代、多くの人が虎御前詣でにここに来ますよね。広重もそれを五十三次の大磯の絵にしていたのだ。(終わりの方に絵がありますので見てくださいね)
※三大仇討ち;曽我兄弟、赤穂浪士、伊賀越え

足下に赤いヒガンバナ(彼岸花)が咲いていた。この花にはいろんな花言葉などがある。 花が枯れた後に葉が出て、葉が茂るときには花が無く「葉は花を思い、花は葉を思う」叶わない恋のたとえになったり、一方で「曼殊沙華」(まんじゅしゃげ)といわれ、天上に咲く赤い花、吉兆の花ともみられてきた。 ちょっとほっとした・・
そして大磯駅に戻ってきた。大磯は明治から昭和にかけて、「政界の奥座敷」とも呼ばれた日本有数の別荘地。伊藤博文の「滄浪閣」、大隈重信、山形有朋の別荘、西園寺公望の邸宅、吉田茂 邸、三井・三菱などの財閥関係者や実業家、華族、軍人、文学者などの別荘が沢山あった。


大磯駅は1887年 東海道線の横浜駅~国府津駅間開通の時に開業となった。当初は大磯駅設置計画は無かったのだけど、松本良順の海水浴場開設論が契機となって開業となった。 政財界の別荘客や皇族・要人、保養に訪れる文化人など、そして照ヶ崎海岸に向かう海水浴客を迎えるリゾート駅として発展した。
二代目駅舎は関東大震災(1923年)で倒壊したが、1924年に建て直されて現在の駅につながっている。かつては貴賓室や庭園などもあった。平成12年(2000)に「関東の駅百選」に、平成21年(2009年)には近代化産業遺産に選ばれている。

天井も高く、窓の枠デザインにもはっとする。美しい。
そして駅前に幾つか碑があった。一つは「第一避暑地」の碑。これは明治41年(1908)に日本新聞社が全国の一般投票で行った避暑地ランキングで1位になったことの記念設置。 また「湘南発祥の地」「鴫立沢」(しぎたつさわ)の碑も。今回行けなかったのだけど大磯の西端に小さな鴫立沢といわれる流れがある。鴫立沢の名前は平安時代の西行法師の歌に由来。この沢の美しさに感動して江戸初期に小田原の俳人、崇雪(そうせつ)が漢文「著盡湘南清絶地」(しょうなんせいぜつのちをつくす=中国の景勝地、湖南地方の南側(湘南)に匹敵するほど清らかで美しい場所だ)と刻んだ標石を建てた。これが「湘南」発祥と言われているのだ。崇雪はここに草庵を結び、今ある鴫立庵の始まりとなり、「日本三大俳諧道場」の一つとなっている。
※日本三大俳諧道場;鴫立庵、京都の落柿舎、滋賀の無名庵
また、駅の真向かいにはこんもり育った緑の森と建物の一帯(約30,000㎡)が広がっている。 エリザベス・サンダース・ホーム、澤田美喜記念館、認定こども園、学校など。
この歴史についても不勉強だった。もともと、ここの土地・建物は三菱、岩崎家の広大な別邸だった。しかし、第二次世界大戦後、財閥解体で国に接収される。が、澤田美喜が寄付や資金を集めて買い戻し、孤児たち、特に米兵との混血孤児院のための敷地として活用した。
彼女は三菱財閥3代目の長女だったが、一人の福祉活動家として行動、終戦直後の昭和23年(1948)に乳児院としてエリザベス・サンダー・ホームを創設。戦後の混血孤児を救うという強い意思。その遺産は何千人もの人生を変える施設となっていった。エリザベス・サンダースは施設を作るための最初の大きな支援者で英国人女性の名前。ここには後に学校も設立される。
多様性という言葉。今、ようやく当たり前になってきたけど、簡単に語っていないだろうか・・・ 今から約80年前、色んな人たちに流れ出した貴重な時間のことを思うと心深くささるものが目の前にあった。
ちなみに、澤田美喜は隠れキリシタン研究家でもあり、記念館には800点を超す資料が所蔵されているとのこと。すごい・・ 一度ちゃんと訪れようと思う。
大磯を歩いたといってもごく一部に過ぎないけれど、一日に受けた刺激は強烈だった。照ヶ崎のビーチ、岩礁、海、あの男の子元気かな・・・ 海水浴の歴史、富士山、アオバト。高麗山、ホルトノキ、高来神社、松並木と虎御前のお話、そして駅舎と駅前の歴史・・・
改札をくぐって東海道線ホームに戻ったけど、しばし脱力・・
でも来てとってもよかった。
ドラマにあふれているところは風景もドラマチックなんだね。
いや、風景がドラマチックだからドラマも生まれるのかしら・・
ありがとー 大磯!!
うーん まだまだ暑い9月末。
無性に食べたくなったモナカアイスクリームの**王

安藤広重の描いた五十三次
東海道五拾三次之内 大磯 虎ヶ雨 とらがあめ大磯町あたりを東から西にとらえています。右側は一つ前の「平塚宿」でこんもりと描かれていた高麗山の斜面。『曽我物語』の曽我十郎と恋仲であった虎御前が出家して結んだ庵があったと言われている。
この雨は「虎ヶ雨」。虎御前が十郎を想い流した涙が雨になったものと言われ、十郎が討死した5月28日(旧暦)に降る雨のこと。
左に静かな相模湾と小余綾(こゆるぎ)の磯、右に立ち並ぶ宿場町の店や、松並木。手前に刈り取った畑。そして宿場の入口付近に降るにわか雨。

