
“旅はENCOUNTERS—東海道53次篇”
第9の宿 小田原宿エリア
(2025 07-2026 05に全53宿場訪問/小田原エリアは2025 1029)
小田原にやってきた。日本橋から約80km 箱根を背後に、相模湾を望み、東海道の要。 東海道五十三次では江戸から初めて出会う城下町。
小田原駅西口を出ると「城山」 昔は八幡山(はちまんやま)と呼ばれたエリア。今あるお城の北側で北条氏が小田原を本拠にした初期の中心部。遺構もいくつか残る。この辺から海側、平地側へ広げてゆき、今の本丸付近中心に城下町全体を巨大な土塁と堀で囲む総構(そうがまえ))のお城として整えていった。そして豊臣秀吉との戦いに備えることになる。
「城山」から半時計まわりでお城に向かうと・・・見えてきた!

小田原には何度か来ているのだけど、お堀の中に入るのは久しぶり。来るたびに素敵なパークのようになってきて嬉しい。インバウンドの人たちも楽しそう。


小田原城は明治3年(1870)に廃城となっている。天守閣などが解体された。明治34年(1901)二の丸跡に皇室の避寒、避暑のための小田原御用邸が建設された。が、大正12年(1923)関東大震災で天守台石垣崩壊、本丸・二の丸石垣も大被害、御用邸は倒壊でほぼ元の姿は失われた。昭和に入ると城跡を市民の憩いの場にしようという動きが起こり、昭和9年(1934)に隅櫓(すみやぐら)が再建され、昭和13年(1938)には城跡一部が国史跡に指定される。
戦後まもない昭和25年(1950)に、本丸跡 に動物園と遊園地が整備された。焼け跡からの復興、こどもたちに夢を与える場所づくり、観光振興が目的だったとのこと。お城のこのような活用は全国的なものだったのだけれど小田原城は本丸に動物園が入ったユニークなものだった。
開園時から飼育されたインド象のウメ子は人気で60歳を超える長寿となり、市民の記憶に残った。


動物園開園から10年後、廃城から90年後の昭和35年(1960)に天守閣復興。
木造復元ではなく鉄筋コンクリート造り。
その後も本格的に江戸時代の小田原城を感じられるように整備が進んだ。
昭和46年(1971) 常盤木門 復元
平成9年(1997) 銅門 復元
平成21年(2009) 馬出門(うまだしもん) 復元
平成23年(2011) 馬屋曲輪(うまやくるわ) 整備
そして、本来の城郭景観を復元するため動物施設は縮小され、最後に残ったニホンザルが2023年12月に移されて73年続いた動物園は閉園となった。
子供たちの歓声が響いた時代から新しい時代に・・・

城郭を見上げると鳥影が見えた!
と思ったらV字に飛んだ・・・

整然と積まれた瓦が並ぶパターンが美しく、見入ってしまった。

ひょいと片足あげた鳩ちゃん。
松の木陰に向かってゆく・・・


綺麗な三角形の狭間(さま)
鉄砲の銃口を出して左右に振ることができる。豊臣秀吉の小田原攻めのときには大量の鉄砲が使われる時代だった。
これが壁のアクセントになっていて面白く、目線を変えると松が見えたりお城の一部が見えたり、もうひとつ向こうの狭間が見えたり・・・

こんな巨木とお城が一緒に目に入ってくるのも嬉しい。

幹の表面に沢山の損傷がありながら立派に育つ常緑樹のビャクシン(柏槙)。ヒノキ科。市内最大級で樹高15m 幹の周りは3m以上の古木。

お堀を渡って振り返ると水鳥が気持ちよく泳いできた。
静かな水面に変わりゆく空の色が映りこんでいて綺麗。
お城の二の丸小峯曲輪(こみねくるわ)の一角に「報徳二宮神社」がある。
二宮尊徳(金次郎)は小田原生まれ、小田原藩主の大久保忠真に才能を見出され、小田原藩の財政改革や天保の大飢饉のコメ不足などで人々の救済に関わった。彼は農民出身だったが、身分より能力を見るという藩主大久保が彼を登用。江戸時代としてはかなり異例のこと。 戦国武将ではないが、小田原の偉人を顕彰する施設として廃城の後にできている。

七五三。
パパがお嬢さんの手をひいてお詣り

ブロンズの二宮金次郎像。国内でよく見るものだなと思ったのだけど・・
この像は昭和3年昭和天皇が即位された記念として神戸の中村直吉氏※が寄進した。全国の小学校などに向けてこれと同じ像を約1000体!! 制作・寄進した。が、戦時中全てが金属として供出され(涙)、現在残っているのはこの一体のみだそう。また、当時新たに日本の長さの基準となった、メートル法普及の意図を反映して丁度1mの高さ!で作られた。
※中村直吉(1865-1932); 愛知県豊橋市生まれ。神戸で米穀商や実業家として活躍。若き23才の1888年単身渡米をきっかけに五大陸、アフリカ一周を含む世界60か国を無銭徒歩などで巡った人物。二宮尊徳が幼少期の貧困や苦難を勤勉と努力で切り拓き、農村復興に貢献した姿に強く共鳴し、明治天皇が愛した金次郎の精神こそがこれからの日本を背負う子供たちにもっともな必要な教育であると強く思っていたとのこと。


切れ間無く、さまざまな人たちがお詣りにやってくる。
いろんな願いが「一円融合」のお札にかかれていた。
この四文字は後世になって使われるようになったとのこと。
「世の中のすべてのものは互いに関係しあって一つの円の中にあり対立するものも含めて調和させることで、よい結果が生まれる」
これ、世界のリーダーたちに今、一番聞かせたい!
よし、じゃ、お城エリアを出て街道を行こう!

お城からほんの数分、旧東海道脇の神社、松原神社。
はい。手水。僕もこの通りに清めます。左手からね。

大きな松ぼっくり。ころん と転がっていてちょっとかわいい。
この神社、平安時代末の近衛天皇(1145-1150)の時にさかのぼる古社。小田原総鎮守と言われている。小田原の町人、漁師さんから篤く信仰され、5月の例大祭は大きなお祭りなのだ。小田原の海岸に現れた大亀にちなむ吉兆のお話からカメさんの像もある。また、東海道を歩く旅人にとって箱根越えを控え、旅の安全祈願の場所にもなっていたのだ。

境内に飾られていた。鮮やかな着物!
これは「万祝」(まいわい)といわれる貴重な晴れ着。
江戸時代から昭和前期まで、大漁をあげた時に船主や網元から漁師へ贈られた祝い着。大漁への感謝、海の安全祈願、漁師仲間の結束、船主からのねぎらいを表しているとのこと。
小田原の浜で昔から盛んだったブリ(鰤)に元気いっぱいの鳥さんが描かれ、真っ赤な大漁の文字がエネルギッシュ。
おー、やっぱり海見たくなってきた。
海、行こう、海!
海に向かって300mほどで「海へと続くトンネル」
1960年代後半、西湘バイパス建設時に真下に造られた防潮扉の一部なのだ。もうトンネル入り口で波の音が響いてくるし、海の方の光が漏れてくる。ウキウキドキドキ・・・

トンネルを抜けると・・・・

一面に白波が押し寄せてくる海。潮風のかおり、響く音。


この辺りは岸から沖に向かって500~1000mくらいいくと急に水深100mぐらいに落ちている。逆に沖からやってくる波は海辺近くで一気に盛り上がって砕け散る。

すぐ奥は御幸の浜。左にカーブして伊豆半島につながってゆく。お日様が箱根に落ちてきた・・・
磯遊びをしたいんだけど、上がって街道の方に向かおう。
お寺の屋根をいくつか眺めながら10分ほど歩くと西海子小路(さいかちこうじ)。


もともとはサイカチの木が植えられ、江戸時代末期には17軒ほどの武家屋敷が両側に並んでいたとのこと。後に小田原文学館となった田中光顕(みつあき)氏の別荘や、山縣有朋(やまがたありとも)や松永安左ヱ門(やすざえもん)など政界財界人の別荘もあった。小田原文学館には北原白秋の資料などが展示されている。

塀からススキの穂がのぞいている。
この小路には静山荘というのがある。(年一回公開) 明治25年(1892)に建てられた農家建築で小田原市内にあったものを昭和14年(1939)に実業家、望月軍四郎が買い取ってここに移築、別荘にした。太い欅(けやき)の大梁とのこと。1879年静岡県に生まれ若くして上京し、商店に住み込みで働きながら株式取引の世界に入り相場師として成功する。京浜電気鉄道の会長となり京浜地域の交通発展に貢献。同時に学校設立や大学や研究機関への寄付など教育との繋がりも大きかった。自分の原点である農村の美しさを大切にしたいと言われていたそうだ。見学に訪れたい。

そして、この小路の先端には、かつて熱海まで海岸沿いにミカン畑の中を走る鉄道の始発駅があったのだ。明治29年開業の豆相人車鉄道(ずそうじんじゃてつどう)は人が押して走らせるもの。急坂では車夫だけでなく乗客もおりて押した。明治40年頃に蒸気機関車を使う軽便鉄道(熱海鉄道)に改良された。芥川龍之介の「トロッコ」はこの軽便鉄道の敷設工事の時の土砂運搬用のトロッコだったのだ! 工事で土工たちが押すトロッコに憧れる少年の物語。その後、軽便鉄道は大正10年の関東大震災で大被害を受け、復旧されずに大正13年に廃止となってしまう。この通りにくると歴史と文学が交差するね。いいところ。
小田原駅に戻ろうとすぐ近くの国道1号線/東海道を渡ろうと思ったら・・・
えっ この電車、何? ソフトクリームと一緒に出迎えてくれたんだけど


202番という数字が前にある。古い路面電車の車両?
説明文を読んでビックリ!
昭和31年(1956)までこの国道1号線を小田原駅近くから路面電車が市内を走り、箱根の麓の「箱根板橋」まで走っていたんだそうだ。
その車両がその後長崎に譲渡されて走っていたが、64年ぶりにコロナ禍最中の2020年12月に保存活動により里帰りしてきた!とのこと。
ここは「箱根口」という人々が昇降していたエリア。
今、「箱根口ガレージ報徳広場」となってカフェも併設。
車体も当時のオリジナルのペイントカラーになっている。
箱根の山や空のブルー、太陽・観光地の明るさのイエローなのだ。

行先表示も箱根「板橋」となっているね。
車内、入ってみようっと。

運転席の操作レバーの盤面には東京芝浦電気と彫られている。東芝 TOSHIBA ね。
運転手さん、カッコよかったんだろうなー

車内のシートは革張りでカーブした天井とライトと。しゃれていていい感じ。ちょっと長めの距離にもぴったりかしらね。

思いがけず遭遇してしまったかつての路面電車。
あ、おなじみ(笑)の二宮金次郎(尊徳)像。
シルエットになって時代をつないでくれた。

歩いていると勿論、目を下に落とすこともあるのだけど、市内でみつけた松?、梅?、そして海かしら? 素敵なデザインの溝のカバー。
こちらは、おすい(汚水) の まあるい蓋・・・

海をゆくお祭りの風景ね。
お城と箱根と富士山と相模湾。
元気よく楽しい。

もうすぐ日が沈む。
どうして毎回意外な景色やドラマが潜んでいるんだろう・・・
もしかして、東海道宿場エリアはそんな驚きがいっぱい潜んでいるんじゃないだろうか。今、行かなきゃ! その気持が強くなってきた。
小田原、ありがとー。
そうだ! うっかり忘れるところだった。
箱根口で「ういろう」買っていかなきゃ。
室町時代から続く小田原スイーツの王様。室町時代に日本へ渡来された「外郎家」(ういろうけ)。薬を扱うお家が接待用のお菓子として米粉を蒸して作られてそれが「ういろう」と呼ばれるようになったんだ。
600年の伝統。
実はこれ、亡くなった僕の親友の奥様にいただいたスイーツ。
彼は小田原に住んでいて、城山エリアから広がる小田原の素敵なことを新幹線こだまの車内で僕に熱く語ってくれたのだ。
ありがとー。
おかげで心に残る素晴らしい訪問ができたよ! スイートな時間もね。
次、箱根に元気よく行くよ~!

安藤広重の描いた五十三次
東海道五拾三次之内 第九の宿場 小田原 酒匂川小田原の宿場に入る前に酒匂川が富士山の東側から相模湾に注いでいます。この川は春から夏にかけて増水。その時には人足(にんそく)がいて、客や荷物を担いで渡っていました。川の中央には江戸時代、川を渡る客を乗せた台、輦台(れんだい)がみえる。板に2本の担い棒をつけたもので、4人でかつぐものが多いのだけど、大名・貴人を駕籠(かご)のまま乗せる2~30人でかつぐ大高欄輦台というものもあった。絵にはエコノミーな肩車も描かれている。
対岸真ん中よりやや右に北条氏の小田原城、その奥に箱根連山が描かれている。どーんと広がる風景。

