



“旅はENCOUNTERS—東海道53次篇”
第14の宿 吉原宿エリア
(2025 07-2026 05に全53宿場訪問/吉原エリアは2025 1102)
吉原宿のあったエリアに行くことにした。田子の浦港に近い東海道線吉原駅で降りる。年季の入った高架を渡りおりていくと岳南電車の改札が見えてくる。

この線は全部で10駅、わずか9.2km
東京の井の頭線を走っていた車輛が改造されて富士山麓の工場地帯を走っている。これに乗って宿場があったエリアに行きたいのだ。
まあるい時計がかかっている窓口奥に人影が見えた。
「吉原本町まで行きたいんですけど・・」
「あ、本吉原ね。もうすぐ出るわ。現金で220円になりますー」
小銭をあわててバッグから探してお渡しすると、

硬い分厚い紙の切符をハサミで切って渡してくれた。今日の日付が印字されているし、不思議な新しい感覚みたいで嬉しい。
「無人駅なの。降りる時に、運転手さんに渡してくださいねー。帰る時は電車に乗られたら整理券とって、降りる時に運転手さんにお金払ってくださいねー」
「はーい」
旅人にとって生のやりとりはちょっとドキドキのいい気分。
わ、切符をよくみると、紙にも紋様も入っているね・・・

始発の吉原駅(開業時は鈴川駅)。赤ガエルといわれる車輛は元京王線から。かわいらしい。この駅と降りる吉原本町(=本吉原)駅舎には100年以上前の古レールが使われている。

出発。電車は海に近い平らなエリアの中を、時計まわりでゴトゴトゆく。
あ、富士山! 窓からは当たり前のように合間合間に顔を出してくれる。
短い路線なんだけど、時々、美味しいビールや夜景を楽しめる特別列車が運行されているんだ。

吉原本町(本吉原)駅で下車。
シニアのシルエットがゆっくりホームに降りてゆく。

昭和25年(1950)開業時から続いているホーム。
1968年に利用者の要望から、雨除けのホーム上屋が出来た。その柱は広がった傘のよう。
このエリアは大湿地帯だったのだけど、水を沢山必要とする製紙工場が建つようになり、鉄道がひかれ、工場の原料パルプや製品など貨物が盛んに輸送されていた。しかし、製紙業界や物流業界等の変化から2012年に岳南線での貨物輸送は廃止。 翌年から旅客部門が分離されて再スタート。地元の足とともに、観光路線としても頑張ってきている。2021年にホームと上屋が国の登録有形文化財となった。よかった!
駅を出ると古い店も残る商店街。元々吉原一帯は富士山、愛鷹山(あしたかやま)からの湧水が大量に染み出す大湿地。そして高潮に地震、津波、火事にもあい、家康が東海道の宿場として定めてから後に江戸時代、宿場は2回移動してこの通り沿いに移ってきているのだ。

あらっ 石碑?と思ったら、明治天皇御小休所とある。
明治天皇がここにあった高砂館という旅籠(宿)で休憩された(明治11年/1878)ことを刻んでいるのだ。この通りの近くには本陣跡や脇本陣跡の小さな碑も残っている。

かわいいポスターに遭遇。「めぐる吉原映画祭」とあった。(2025 11複数個所で開催) 商店街近くに残る古い元「東映映画館」も25年ぶりに一日に限り活用されるとのこと。 元々、世の中に映画というものの登場以前の江戸時代から吉原宿場界隈では芝居小屋・見世物文化が盛んだった。明治になってからは、吉原エリアは製紙工業で発展、労働者や商人が増え、岳南鉄道開業で沿線から吉原本町に多くの人たちが・・ 映画館は街の社交場に.. 映画館は待ち合せや、初デート場所等になったり、ウキウキのシーンが沢山あったみたい。昭和30年代の映画黄金期には商店街周辺に複数の映画館が並んだ(吉原東映劇場, 電気館, 第二電気館, 東座, オリオン座, 吉原日活岳南劇場, ひよどり映画劇場..)。 そして昭和40年代以降、時代の流れの中で次々と閉館..
でも新しい時代の中で新Movie文化を興してゆくエネルギーがここから生まれているとのこと。ショートフィルムフェス等も開催されていて嬉しい・・

商店街を歩いてゆくとこんな猫ちゃんたちにも出会える。
キメポーズにちょっとニコっと・・
富士山の方向を向くと、うん?
あら? 頭が尖がった建物がちらっと見えた。
気になるので歩いて行ってみたら・・・


おっ。これは古い素敵な洋館! 何だろう?と思って入口を見てみると旧順天堂田中歯科医院診療所/兼/主屋とある。(※大学の順天堂とは別)

吉原生まれの田中隆次郎氏。東京歯科医科専門学校(現在の東京歯科大学)を卒業。
大正14年(1925)、ここで歯科医院開業されるにあたり、富士川をはさんで西の次の宿場町である蒲原の東山(現在の静岡市清水区)にあった矢嶋作郎氏(東京電燈会社–現在の東京電力–初代社長)の建物を手に入れられ、その洋館部分をここに移築された。
なんと各部屋は天井高さ3.9m 欅(けやき)板の寄木張で部屋ごとに張り方が変えてある。照明器具の中心飾りも漆喰塗りで形作られているとある。

ヴィクトリア朝風洋館の天井。このドーム、大きい。中は勉強部屋だったそう。屋根は鱗(うろこ)みたい。赤い銅板に見える鉄板。


わ、これはちゃんと入って見てみたい!と思ったら・・・なんと、
この建物、近々に移築・復元されるとのこと。(富士市広見公園内 ふるさと村歴史ゾーンに) 当時の様子が再現されて、また、その空間でコンサートなども是非実現してほしい。その響きも楽しみ。
このエリアでの存在感が惜しまれるけど・・・
街道に戻り、平らな道を歩いてゆく。
ふと、スマホを拡大してみると、
地図上で近くに気になる緑のエリアが・・・。
新通町(しんどおりちょう)公園とある。
こどもたちに人気のミニ列車や昔の車輛のある公園だって!
行ってみましょ(笑)

その通り、近くになると子供たちの歓声が・・・
お、走ってる走ってる。えっ 線路の上じゃん。信号もあるし・・・
なんと、ほんとに毎月1回ミニ列車が走っているとのこと。
あれ、チャイムみたいなのが聞こえてきた・・・
音がする方向を向くと・・

あ、男の子(写真左)が何かぶらさがっているものを叩いている※
それに、右側にドーンと車輛が。屋根があるね。
古そう。あ、これは、初期の新幹線車輛 では・・?

そうでした。
一番初期の 0系新幹線の運転車輛。

全長は約25m 幅3.4m 高さ4.17m 69t(展示は45t)
長さはプールの長さくらいもあるんだね。この車輛は16両編成の運転車輛の1号車。昭和43年(1968)製造、昭和58年(1983)廃車。東京-新大阪間を4700回往復、520万km超、地球約130周を走った。
ちなみにこの1号車は東京から新大阪行きの先頭だったからずーっと西向き。ここでの展示で生まれて初めて東を向いたんだそう。
「新幹線を身近に見て、触れることでこどもたちの夢を育てたい」と願われた地元企業創業者(高木一三さん)の気持と強い地元の人たちの愛に支えられ、解体寸前だったこの子はここで保存されることに。
陸路6.5時間以上かけて運ばれ、日本で初めて公園に本物の新幹線を展示した「聖地」となったとのこと。 ※JR東海との貸出契約

車輌に向かう親子連れがおられたので「中に入れるのー?」と聞いてみたら、「そうよー。大丈夫ーー」 (※無料です)
車輌の後ろに階段がかけられていてそれを上がって入ると・・・

おっ ママと一緒に行ったり来たり。
シートは沢山並んでいるし、普段まわりではみない二列、三列シートもあるし、扉はあってずーっと廊下みたいに続いているし。リアルの新幹線の乗車シミュレーションじゃん。楽しそー


座席番号の表示や、フック。それぞれがいきなり懐かしい感じがして面白い。バッグやカバンなどをかけるフックは確か今は折りたたんで突起がないものになっているよね。
荷物棚はパイプで素通し。今は隙間なくずーっボードがとつながっているはず。

固定式のミニテーブルの下に灰皿!
初期には全車両、喫煙可能だった…
大人にとってはレトロの発見楽しみが・・・

こうやってみると曲線があるけど、結構直線のラインがあちこちにあって今の時代には意外に新鮮な感じがする。

車窓から見える子供たちが公園ではしゃぐ姿。
飛び去ってゆく景色ではなく、思い出す景色かしら・・・
新幹線に乗った時のことも、子供の頃のことも・・・

大きな木陰と新幹線とその後ろに富士山。
ここ、走り回っているだけで素敵な思い出になってゆく。
注) ※男の子(写真左)が何かぶらさがっているものを叩いている・・
これは、レールチャイム。長さを変えてレールが切って作られたもの。たたくとメロディが結構遠くまで響く。
このレールは約90年前の昭和12年(1937)製、伊豆の国鉄(JR)伊東線で使われていたもの。国鉄の民営化(1987)と路線の近代化改修から各路線で実施された古いレールの交換。このレールもスクラップ(鉄くず)になるところ、鉄道遺産保存に熱心だった新通町公園に遊具として有効活用してもらえるとして富士市に寄贈、移設・加工されたのだそうだ。素晴らしい第二の人生ね。
意外な新幹線との出会いに、時のスケールがトリップしながら、通りに戻り、駅の方に向かった。

お寺の塀の前を子供が元気に走りゆく改行)

足下のマンホールの蓋にはドンと富士山と波。
そうだ。
吉原駅に戻って、海側からドンとしっかり富士山をみたい。

岳南鉄道に乗って最初の吉原駅に戻った。
海側にJRの鉄路の下を潜り抜けてゆく。

ウォールペイントが可愛くてどんどん歩く。
左側にはチューリップ。奥には富士山が描いてあるね。
東海道線の南側に 「富士と港の見える公園」というのをみつけた。ここに行こう! 港の南側のじんわりゆるやかな坂を上ってゆく感じ。歩いているとすぐにはわからないのだけれど一帯は砂丘で盛り上がっているのだ。駿河湾に面し、古くから湊からの高波と砂丘からの砂の害が激しかったと言われている。しかし、鎌倉時代から対岸の前田というところへの渡しがある要所で旅人を改める見付があり、南北朝から戦国時代には大切な宿場・港町になっていた。が、度重なる天災から避けるため江戸になる前、天文年間(1532-1554)に内側のエリアに移り、「吉原」となっていった。江戸時代となり1606年に家康が五十三次の吉原宿場とするが、厳しい自然のために1639年にまた移転していたのだ。
そんな昔から厳しい自然の最前線だったその先端近くにまで来た。今でもその見附跡として碑がある。と、その横に「阿字神社」という小さな神社が・・

昔から数多くの水害で田畑が痛められる原因は川の合流する所の三股淵というところに住む川の主、大蛇が怒って暴れるせいであると考えられていた。江戸時代より少し前に、この大蛇を鎮めるために12年ごと、巳年に生贄として娘をささげることになった。ある巳年、生贄になる娘をくじ引きで決めることに。丁度江戸から京へ修業に行くために通りかかった巡礼姿の7人の巫女のうち、一番若い「阿字」という娘が当たってしまった。
阿字は村の為になるならばと生贄になることを泣きながら承諾。
大蛇にささげられると覚悟した当日、この話を聞いた和尚さんが大勢の坊さんを連れて、淵にやってきて大蛇を鎮めるための読経を始めた。するとその読経を聞いた大蛇は自分の今までを悔い、再び暴れないと約束し、鱗(うろこ)を数枚残し川の中に深く消えてしまった。
阿字は助かった。
一方、六人の娘たちは泣く泣く阿字と別れ、江戸に戻ることになったが途中、この近くの浮島沼で自分達だけが家に帰れないと全員身を投げて死んでしまう。助かった阿字は六人を追いかけるがそのことを知り、自分も同様に身を投げて死んでしまった。
な、なんということ・・・ 今でも少し離れたところにある六王子神社はこの六人を祀り、阿字を祀ったのがこの阿字神社 奥宮。
無数の命が失われる痛ましい自然災害。そして、それを何かの命のせいだとする人間の想いとその悲劇・・・
この神社のすぐ近くが水際。そこに展望塔があり上った。


昔から何度も激しい自然が襲ってきたところなのに、今日は穏やかで海風が心地いい。

まぶしいお日様。
あ、その方向、対岸に向けて昔は渡しがあったのね。

そして富士山が見える、港のすぐ奥の湿地の広がる方に街道や宿場が移り、また移りしていったのね。

手前に港と工場地帯が広がるけれど、
まさにここ、富士山のど正面。
広い空いっぱいにつづられる雲の紋様もすごい。

望遠で覗いて見た。
この角度で迫る富士はため息がでるほど美しい。
今回もありがとう。
栄枯盛衰。
人々のぬくもり。
自然の激しさと美しさ。
富士川を渡って次を目指してゆく・・・

安藤広重の描いた五十三次–第14の宿場 吉原
東海道五拾三次之内 吉原 左富士
東海道を江戸から西に向かう時、富士山はずっと右手に見えるもの。
ところが吉原の宿あたりで、道は大きく右に湾曲するところがあり、珍しく富士山が左側に見えるので「左富士」の名所として親しまれていた。自然災害で宿場と街道が内陸に移動したから・・・
その富士山を眺めながら、のんびり松並木を馬で行く景色。馬に乗る3人の子供達(この乗り方を三宝荒神といった)。右側の子は居眠り中?
富士山がやや赤いのは朝なのかしら?
あらっ 北斎の赤富士っていうのがありましたね・・

