


“旅はENCOUNTERS—東海道53次篇”
第15の宿 蒲原宿エリア
(2025 07-2026 05に全53宿場訪問/蒲原エリアは2025 1126)
東海道線の吉原駅を出ると次は富士駅。ここで甲府に行く身延線と別れる。西に向かう東海道線は富士山の西裾野を流れる富士川の鉄橋を渡る。江戸時代は船での渡し。電車で渡り切ると富士川駅となる。ここで降りて15分ほど歩くと富士川に到達。 広い河原には野球場、サッカー場、セスナやグライダーなどのための滑空場(小飛行場)まであり、川沿いに歩くとそのまま駿河湾まで到達できるのだ。

わっまぶしい・・
木のシルエットが美しい・・
ずーっと海までーーー

振り返ると富士山! 広大な富士川の河原の向こうに白い頭を出している。


そう。こんな感じでサッカー場がデーンとある。
ここで蹴れると最高よね。いいなあ・・・
今、平日の午前中で静かだけど、週末とかはきっと賑やかよね。
真正面の富士山。望遠でグイーっと引き付けてのぞくと・・・


すごい迫力。山頂は少し左(西)側が盛り上がっているのがよくわかる。その頂上近くまでしっかり雪が積もってきている。
冬になるともっともっと下まで雪でかぶってゆく・・・
この雪融け水はやっぱりすごい量になるよね。
っと、ふと気づいた。東海道、これから進むと富士山はどんどん東方向にずれて小さくなって、そして見えなくなるんだ。
そのことを思うとつい、じっと見てしまう。
更に歩いてゆくと・・・

あら、おじさんがいる。えっ! これ・・・!
「こんちはー。これ、もしかして桜エビですか?」
「うん。今日は天気いいからねー。干す時はねー」
「晴れましたねー。撮ってもいいですかー?」
「おー。いいよー」

冬を越した成長した桜エビの春漁と夏に生まれた若い桜エビが成長してとる秋漁とがあるんだ。とれたところは駿河湾西隣の宿場町、由比。
黒いシートの上、まだとれたてが透明に光る。

わー、富士の裾野の桜色絨毯。
河原には子どもたち向けの遊具もある。
亀ちゃん、クジラちゃん・・・


君たちも風雨に負けず元気でいてほしい・・

いよいよ河口に、駿河湾に、近づいてきた。
トビが空高く飛んでいる。

河口に砂のたまった洲。その向こうから波が押し寄せてくる。

駿河湾の東は箱根から伊豆半島に続く山並み。

南に・・・

そして西にすべるように飛んでゆく・・・

足元には角がとれたいろんな形の石が混じってコロンコロン。
富士川から流れてきた石達かしらね。

その砂たちや石ころたちをシュワーンと白波が洗ってゆく。
そしてジャラジャラ・・と海の中に引き込んでゆく。
この目の前の海。実はこの海が昔から言われてきた「田子の浦」なのだ。 (※吉原エリアの「田子の浦港」あたりではなく)

洲のまわりの波は面白い形に盛り上がっては引いてゆく。

沖はキラキラ・・
あ、そうだった! 駿河湾は日本の湾としては最深の湾。
この富士川の河口から沖20kmぐらいで水深が一気に2500mにもなる。
ここからそのまま海底谷がどんどん深くつながっていっているのだ。富士山は3776mだからその最深部の谷から見上げると6000mの高さの山がそびえている感じになる。すご。
富士川が運んでくる大量の土砂は陸上だけでなくそのまま海底にも流れ下っていっているのだ… 圧倒されるような地形の中で富士山を見ながら聴く海の音。立ち去りがたく、ゴロンとしばし砂の上に大の字になっていた。
さ、では、街道を歩こう。まず宿場の西の端あたりまでいってみた。
そこにあったのが和歌宮神社。
広い境内は落葉樹に囲まれて明るい雰囲気。


狛犬もしっかり決まっている。実は線路近くでお会いした方に声をかけられて、是非ここに行ってみてーと言われたのだった。
なんと、この神社、祭神として木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)だけでなく、山部赤人(やまべのあかひと)も祀っている。
山部赤人(700?-736)は 奈良時代の歌人。小倉百人一首の、
「田子の浦ゆ うち出てみれば真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」
を詠んでいる。田子の浦ってまさにさきほどまでいた富士川河口に面した海。当時から駿河国(現静岡県東部)は東海道の要衝で、東国への入口。多くの官人や旅人が通ったところ。奈良時代には既に富士山は既に神聖な山で歌に詠むべき日本を代表する景観として知られていた。
山部赤人は宮廷歌人で天皇や皇族の外出(行幸)に随行されていた。東国方面への公的な旅途中、田子の浦付近で海岸線から突然開けた富士の景観に感動されたのだろう・・・

富士のあの光景と、山部赤人の歌も浮かべながらお詣り。
境内を出る時に、この神社のことを教えていただいた方がもう一つ気になることを言われていた。
「北斎の有名な絵で赤富士ってあるでしょ。あれ、そこの田子の浦からの富士らしいのよ・・・」
えー。 調べてみると、幾つかある説のうちの一つみたい。富士山の稜線、雪の残り方、光りの方向から駿河湾からではとされているのよね・・・
今度は宿場の東方向に向かった。(江戸からくると宿場の入口)
蒲原宿は慶長6年(1601)に15番目の宿となったのだけれど、元禄12年(1699)の大高潮/津波(台風の暴風高波説あり)で壊滅的被害を受けた。そのため、元禄13年(1700)に東海道そのものをつけ替え、宿場は海際から北側の山裾へ移った。海抜10mくらい。今走るJRの線路の北側のエリア。
その山裾に鎌倉時代からの諏訪神社があった。階段を一気に上がる。傍らに見えているのは椿。いいアクセントでしょ? 石段は11段と53段あってかなり急。上った境内からは海を見下ろす感じで、たとえ海が荒れていても守られている気持ちになりそう。


樹齢300年以上といわれている大きなシイノキが生い茂っている。まさに江戸時代から育ってきた木。

災害に耐え、残った神様。時代を超えて人々を守ってきた。

そして、宿場の東口の目印としても、また、旅の安全を祈る場所としてもあり続けた。
お詣りして行こう。
300mほど歩くと岩戸山 龍雲寺(りゅううんじ)。曹洞宗。

境内にあった涅槃像。永代供養の祈り場。

室町時代創建とされるこのお寺には「甚太夫の槍の穂先」が保存されている。
承応2年(1653)高松藩の槍の名手、大久保甚太夫ら数人が江戸へ向かう途中、蒲原宿付近で数百人規模の薩摩藩の大名行列と遭遇。槍の穂先が触れたことで一方的に無礼とされ公衆の面前で土下座や謝罪を要求され・・ 面子をかけた口論から争いに・・・ 激しい斬り合いになり、槍の達人である甚太夫は単身で70人近くを相手に奮戦し多数を倒したものの最後には追っ手によって命を落とした。龍雲寺は甚太夫を敵味方関係なく手厚く葬ったとのこと。

この事件は江戸時代後期から明治にかけて講談や歌舞伎の演目「蒲原の喧嘩」などとしてエンタメ化され、どこまで真実かわからないのだけれど、それによると・・・
藩同士の大戦争の一歩手前まで発展。高松藩の実家、水戸徳川家が「我が藩の者を寄ってたかって惨殺し、さらに宿場町蒲原宿も薩摩に加担した」と大激怒、「高松藩と水戸藩の兵を出兵させ、蒲原宿を男女問わず焼き払い、薩摩と一戦交える」という極端な臨戦態勢まで整えた。大名同士が私闘を行うことは幕府崩壊に繋がりかねない禁忌であったので、これを恐れた尾張徳川家や紀州徳川家、幕府が必死に間に入り、水戸藩や高松藩をなだめ、大規模戦争は回避。当事者十数人を処刑することで表向きは喧嘩両成敗として幕引きが図られたとのこと・・・
が、裏話としては実は薩摩藩ではなく大和国の郡山藩だとの記述が残っているそう!!!!
何が真実かお話かわからないけど・・槍の穂先は保管されている。
いつの時代も地球上のどこでも、ちょっとした習慣やマナーの違い、面子やプライドが傷つくなどといった事件から内乱や戦争に・・・
改めて深呼吸・・・。更に街道を西に進むと・・
5分ほどで旅籠「和泉屋」となる。

ちょうど宿場街の真ん中あたり。国登録有形文化財になっている。
江戸後期、蒲原宿で営業していた旅籠。天保年間(1830-1844)に建てられたとのこと。間口が狭く奥に長い。二階に旅人が泊る部屋があり、櫛型てすりは建築当初のものとされる。
ちょうど午後の光があたっているね。
そして、この建物は安政東海地震(1854)を耐えた建物なのだ。多くの建物が被害を受けた中、しっかり生き残っている。
建物の一部は公開のお休み処、一部は個人住宅。
実際に使われながら時代の中で残ってきた歴史建築。見事です。
その近くには趣ある古い商家が残っていた。明治42年(1909)年建築とのことなので115年以上も前。手作りガラスと総欅(けやき)の家(磯部家)と言われている。欅は昔から高密度で傷つきにくく重量感がある高品質な木材と言われてきている。このお家では柱や梁、戸袋まで全て欅! それがしっかりずっと使われてきているのがすごい。
また、日本の板ガラスの生産開始は明治40年ということなので、国産、輸入の見極めは難しいけど、これまた、当時の最先端の建築用材が使われているのだ。

通に面したところのガラスだけ撮らせてもらったけど、もみじが可愛く、すりガラスの紋様も美しく・・お部屋の中は楽しい光になりそう・・・ 素敵ですよね。
※ 1Fのガラスは明治より後の時代のもののように思います。

街道をそぞろ歩くと古い蔵も目に入った。
午後の陽を浴びて、からまる蔦にピンクの山茶花(さざんか)。
街道の素敵なブーケだった。
蒲原宿には東本陣と西本陣の二つがあったのだけれど、今は西本陣跡が素敵に存在している。ここに大正時代にたった建物がずっと使われてきていて現代にその時代の雰囲気もしっかり漂わせている。

日本の屋根に素敵なグラフィックな模様・・・

ガラスに美しい矩形の窓デザインも目を引く。
こちらは国登録有形文化財、大正時代に建てられた洋館、旧五十嵐歯科医院。


外観は洋館、内部は和風。
珍しくガラス窓が多く使われた開放的なデザイン。軒下の飾りもペンキの色も明るい気持ちになる。
五十嵐準氏が大正3年に自宅を洋風に改造されて歯科医院を開業されたのだ。3回増改築されて現在の姿に。
水道がなかった時代で井戸水を二階の診療室までポンプで通されていた。名医といわれ、特別待合室もあって明治の元老、田中光顕 伯爵も患者の一人だったとのこと。

わ、これはタイムスリップの空間。じっくり1Fも2Fも見学したい。改めて来なければ・・・
入口で片瀬信江さん(「旧五十嵐邸を考える会」理事長)のお話を伺っていて、また、びっくり。
なんと、一つ前の宿場、富士川の対岸の吉原で遭遇した洋館の田中歯科医院と関係があったのだ。(※前回第14番宿吉原コラム ご参照)
五十嵐先生が現 東京歯科大学後輩にあたるのが田中先生。五十嵐先輩は既にここで歯科医院を開始されていた。後輩田中先生が吉原で開業するに際し、この先輩後輩は一緒に蒲原の東山にあった矢嶋作郎氏(東京電燈会社–現在の東京電力–初代社長)の建物を共同購入(五十嵐さんが土地、田中さんが建物)。そして田中さんが建物の洋館部分を吉原に移して医院を開業したのだった。この先輩後輩のコンビネーションすごい。地元できちんと開業して貢献したいという志、御二人とも素晴らしい。
その有形財産を時が流れてもきちんと保って残されていて頭が下がります。文字だけでなく、実際に五感で体験できると時空間超えてその価値が身に染みてわかる。

ライトグリーンの古い歯科医院の前には昔からの街道。
昼下がり、こどもたちの手を引いて親たちもゆく。
あ、ぬいぐるみのワンちゃんも見守ってくれているね。
ありがとー蒲原。
富士山も富士川も田子の浦も、奈良時代の山部赤人も江戸時代の大久保甚太夫も、明治、大正、昭和も実感することができた。
あ、桜エビにもね。
あー桜エビが沢山乗った海鮮丼が目に浮かんだ。
次の宿場は桜エビ漁の由比ね。
※そんな話! 電気が違う!
吉原宿とその次の蒲原宿の間には、富士山の西裾野からの大きな富士川が流れている。川幅は一番広いところで約2kmもある。
知らなかったのだけど、この川をはさんで東と西で電気の「種類」が違う。東側は東京電力(50サイクル)、西側は中部電力(60サイクル)。この二つの電気を直接結ぶと不具合が起こっちゃうので両者は遮断されている。必要で電力をお互い融通しあうときにも工夫が必要で特定の場所でのみ可能となっている。
この両方のエリアへの対策をとっていない電車がまたがって通過すると壊れてしまうのだ。なので異なるサイクルの電気両方を動力に変えられるよう、また、スムーズに切り替わってそのまま回り続けるように電車側で工夫してあるとのこと。
熱海発浜松行き電車に乗っていったのだけれど、電車は止まって切り替え操作とかせず、そのまま川を渡ってゆく。電気をもらう架線には両エリアのつなぎ部分に通電しない特殊線が数十cmあるだけ。電車は何もなかったかのようにスーッと渡ってゆく。

安藤広重の描いた五十三次–第15の宿場 蒲原
東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪
雪の降る夜の宿場。
慎重に歩く3人の足跡が雪の中に残ってゆく。
彼らが着ている蓑やかぶっている笠にも雪が積もってきている。
黄と青の人物以外はモノクロ。
東海の蒲原宿付近はあまり降らないエリアで、広重の心象風景とも言われているみたいだけど、僕は冬場に一気に積もる日もあっただろうなと思っています。今もたまにあるのよね。少し前のNo. 13 原宿の絵には朝之雪というのもあったし。江戸時代は小氷期であった・・

